人ならざるもの
いつもより早く起きた。
昨日の昼から何も食べていないので身体から
「ギュギュギュギュッ」
と気持ち悪い音が聞こえる。
しばらくするとお腹にガスが溜まって…出してを繰り返す。
こういう時にふと
「死んだらこういう感じで爆発するのか…」
と死を意識してしまう。
死への意識は人生について考えるきっかけとなることが多い。
今の人生や現状の自分に満足している人はどれだけいるだろうか。
僕を含め、多くの人は将来に淡い希望を抱き、日々努力して生きていると思う。
ただ、これって自分の人生から逃げているだけなんじゃないのかと感じた。
今を生きることが怖いのかもしれない。
自分の人生の本番はまだ先なんだと…!
「本当のオレ」を使ってないから今はこの程度なのだと…
そう飽きず 言い続け 結局は老い…死ぬっ…!
その間際 いやでも気が付くだろう…
今まで生きてきた全てが丸ごと「本物」だったことを…!
人生の本番はまだ先だと自分に言い聞かせて、かりそめの今を生きている。
しかし実際には「かりそめの今」なんてものは存在せず、そこにあるのは紛れもないる本物の現実だ。
ここで疑問に思う。
「本物である今」を楽しめない人間は、1年後、5年後、10年後が本物になった時にも結局楽しめないのではないか。
「今はまだこんな状況だけど10年後には…」
と思っていて、いざ10年経った時にまた、
「今はまだこんな状況だけど5年後には…」
といつも「本物である今」を生きずに「かりそめの今」を生きるのかもしれない。
ここでよく勘違いするのは
「じゃあ今を楽しむために、自分がしたいことをするわ!」
と言って刹那的な快楽に走ることだが、それも少し違うような気がする。
もちろん刹那的な快楽というものも人生を楽しむ上では必要だが、これだけでは不十分だ。
それよりも大事なことは、「本物である今」をしっかりと地に足をつけて生きることではないだろうか。
現状への不満から将来に希望を抱き努力するとうのは大切なことだが、それで「本物である今」をないがしろにしてしまっては本末転倒だと思う。
確かに、自分の今の状況は将来に淡い希望を抱きたくなるほどのものかも知れないが、目を凝らして見れば良いところもたくさんあるはずだ。
学校や職場の人な家族との関わりであったり、ふとした人からの親切や、道中の景色が綺麗だったり…
僕もこのブログを見ているあなたもいつか「人ならざるもの」になる時がくるだろう。
それは遠い先のことに思えるけれど、案外すぐきたりもする。
そういう時に
「今はかりそめで自分の人生の本番はまだ先だったんだ…」
と後悔しても手遅れだ。
そうならないためにも、地に足をつけて「本物である今」を楽しんで生きることが大切だと実感した。
「ギュギュギュギュッ」
と身体から気持ち悪い音が聞こえる…